自分の意思で生きろ!ワタシ

【腰痛からの教え】
〜自分の意思で動く(生きる)ということ〜
(前回の続き)

ヘルニアと診断を受け「右脚の痺れはなくならないかも知れない。症状が治まるのは3カ月が目安」とのことでしたが、『自分の気持ちを認め、ズレた思い込みに気づいた』途端に痛みが劇的に去った私。それは痛み始めて寝込んでから2週間後、トータル約1カ月間のことでした。

足に痺れが残るものの、あの痛みと苦しみが去ったという喜びの方が大きく、晴れやかな気持ちで動き始めた私。

年末の大掃除もガンガン張り切っていましたが…
それは重要な気づきを得るための第2章の始まりだったのです。

《無くなった身体症状を埋めるもの》
身体症状が無くなると、しばらくは『嬉しい』と浮かれていますが、実は身体にとっては身体症状が『無くなって』穴が空いた状態です。
空いた穴は埋めたくなります。

「何で埋めようか…。
あら…
特にアイディア無しなの?」
こういう会話が無意識のうちに繰り広げられます。
そうすると、どうなるか。

張り切って動いていた私は、段々と疲れてきました。そして、ヘルニアではない腰の痛み、いわゆる、馴染みの『腰痛』を再発しました。
その時、思わず「○○○○、腰が痛くなった」と心の中で呟いていました。

身体が元の状態に戻ろうとするのです。
消えた身体症状の代わりになるもの、馴染みの腰痛をぶり返して、です。
腰が痛いのは苦痛のはずですが、「馴染み」なので『あー、ちゃんと痛いわ〜』と安心する、という奇妙な現象を引き起こすのです。

《ねぇ、私、そのままでいるつもり?》
腰痛をぶり返した私は、また問いかけました。
何だろう?
今度は何に気づくきっかけなのだろう?

そしてふと、思いついたのは… 
「私は自分の本音に気づいた時、ヘルニアの痛みが消えた。けれども身体の使い方は、本音に気付いていない時のままだ。
自分の本当の意思でいなかった時、私は動くことに無頓着で、自分の『与えられた肉体の能力』に任せっきりだったのでは?」と。

昔から腹筋を鍛えるとか丹田に力を入れる、とか言われているのはどういうこと?
と、改めて考えてみました。

そして、今更ですが、
『腹(丹田)で歩く/立つ/動く』
『自分が、自分で、自分を生きる=動く(動かす)』
を意識してみました。

力を入れるのは腹だけ。
肩からは力を抜くイメージで動いてみました。

腹に力を入れて立ち上がると、腰の痛みが軽くなる、と実感。
では、腹を意識せず無頓着に立とうとするとどうか?→痛い❗️
ナルホド、じゃあ今日一日、動く時にはとにかくいちいち腹に力を入れてみるか。

結果どうなったかというと・・・

たった1日で、また元気になりました。
そして、どんなに腹(丹田)に力を入れても、腹筋は疲れないということがわかりました。
苦しい腹筋運動をしなくても、『自分(の意思)』で動くことを意識するだけで、無駄な力は抜け、姿勢は良くなり、気分が良くなることがわかりました。

これは、与えられた自分の肉体を大事に使うコツでもあるように思います。

自分の心と身体を操縦するのは自分。
各パーツにバラバラに動きを任せていると、無駄な力が入って、筋肉疲労を起こすんだなぁ、と思いました。
そして今、右脚に痺れは全くありません(^^)

#腰痛
#ヘルニア
#心と身体
#丹田 
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ベスリクリニック 笑顔外来トレーナー
トランスフォーメショナルコーチ®️
黒澤美佳

 

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ヘルニアのこころ

【ヘルニアが訴えるもの】
~自分の本音に気付き、認めるということ~
                                   
人は、自分の本当の気持ちに気づかなかったり、無視したりし続けると、身体症状で「気づいて」のサインを出すことがあります。
 
《私は腰痛持ち》
私は、CA時代から腰痛持ちでしたが、CAを辞めれば治るのかと思い、放置していました。
(まぁ、そんなことはなかったのですが。)
時々疲れて痛みが出る程度なら、整骨院でマッサージや鍼治療でしのげばいいや、と、、、。
 
そして最近、遂に私の腰の『堪忍袋の緒が切れ』て、ヘルニアを発症し、救急車に乗る羽目にまでなりました。
 
一体何かしら?
私が気づいていないこと、本音と違う思い込みって何かしら?
 
《その時、痛みが一列になって…》
私たちプロのコーチが師匠の指導のもと、月1回勉強する研究会でのことです。
テーマは「人との関わり方」を軸にしたものでした。
その日、椅子に座っているのも辛いので最後までもたないかもな、と思いながらの参加でした。
 
そして、ワークを通して自分が一番心地よい、他者との関わり方を再認識すると同時に、『これからはこうしなければならないのか〜〜(ーー;)』と、なりたくない自分の姿をイメージして抵抗していたことに思い当たったのです。
 
「なーんだ。私、好きな関わり方はやっぱりこれだよね。いいじゃん、これで〜^ ^。あ、そして、どうしてわざわざ苦手で嫌なことをできるようにならなければ、なんて思い込んでたんだろう?バカバカしい 笑笑」と、思った瞬間…。
 
腰と臀部に居座っていた痛みの塊が、一列になってスルスルと動き、右脚を下り、床に抜けていくのがわかりました。
 
『え?なんだ?今の?ほんと?』
そう思って座り方を変えたり、立ったりしてみたら、不思議!
本当に痛みが劇的に去っていました。
 
そして「やった!凄いぞ、私!」
と、喜び、日に日に調子良くなるのをいいことにあれもこれも、と張り切っていました。
 
自分の本当の気持ちに気づくと身体症状が消える、を体感して大喜びの私でした。
しかし、この話はこれで終わりではありませんでした…。 つづく
#ヘルニア
#思い込み
#本音
 
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ベスリクリニック 笑顔外来トレーナー
トランスフォーメショナルコーチ®️
黒澤 美佳

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【2017年 クリスマスに想う】

※敬虔なカトリック信者は閲覧注意

 

《 1 できちゃった婚 》

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もしも、この世の中に
私は出来ちゃった結婚で産まれたから、
仕方なく生まれたから愛されてない…
とか
自分は出来ちゃった結婚だから、子供にかける愛が足りないのでは…
と、罪悪感を持っている人がいたなら…。

 

どうか
安心して欲しい。


聖母マリアは夫ヨセフと結婚する前にイエスを懐妊した。
そして、愛ある家庭を築いた。

エスは世の救いの為に生まれたという。

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見るがいい。
世の救い主である彼自身が

そういう生まれ方をしてみせたではないか。
だから、大丈夫。
なんだよ。

 

私はカトリック信者で幼児洗礼。
洗礼名は聖女アグネス。

どれだけ、これに悩んで、苦しんできただろう。

 

《 2 実の親 実の子 》

 

もし、この世の中に
自分の父は本当のお父さんじゃないから…
自分は、子供の実の親でないから…

 

結局本当には愛されていないのではないか…

とか

子供に対する愛が足りないのではないか…


と、苦しんで、悩んでいる人がいるなら…。

 

どうか
安心して欲しい

 

みて見るがいい。
救い主、イエス・キリストの父ヨセフは養父だ。
実父ではない。

 

ヨセフの婚約者は、

ヨセフと結婚する前に、「天の父=聖霊=宇宙の真理=大いなる存在」

によって「手をつけられた」んだ。 

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これが男として、どれだけの苦しみだったろうか。

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婚約者のその相手が、どんなに素晴らしく立派な奴だったとしても、

こんな理不尽な仕打ちは無いはずだ。

身が引き裂かれるような、

歯ぎしりするような苦しみだったのではないだろうか。


それでも、

彼は妻と生まれてくる子供を全身全霊で愛した。

受け入れたんだ。
それだけ、愛していた証だね。

 

実の親でない親だからなんだ!
実の子でなかったらなんだというのだ!

 

世の救い主が
自ら、生まれる前から世の中の「こうあるべき」をぶっ壊してね、

そういう生まれ方をして見せてくれたんだよ。


「それがどうした? 俺の父ちゃんは最高だぜ!!」笑笑
って言ってるんだよ。

 

どのような生まれ方をしたとしても
みんな赦されてるんだから!!

  

私はカトリック信者 幼児洗礼
霊名 聖女アグネス

どれだけこれで、悩み、苦しんだことだろう

 

《 3 体外受精 》

 

 

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もし、この世の中に
自分は体外受精だったから…
とか
父親の精子は他所から持ってきたから…
と、自分を恥じたり、

そうしたことで罪悪感に苛まれている人がいるなら

 

どうか…
どうか…
安心して欲しい

 

世の救い主として
生まれたイエスキリストは
父ヨセフの精子では生まれてないのだから。


当たり前、な生まれ方をしないで見せてくれたんだ。

 

「まだ、偏見があって受け入れられてない?
だったら俺を見ろよ。母マリアを懐妊させたのは人間ですらないんだぜ。

そんなことあるわけないって、2000年以上、否定されてるんだぜ。爆」

 

「俺は、世の中の常識を破りまくった。

大丈夫!みんなまとめて赦されてるから❗️ってことだ」

「みんな、幸せになれ❗️❗️

 

私はカトリック信者 幼児洗礼
霊名 聖女アグネス

敬虔なクリスチャンをやめた女 

 どうか…
安心してほしい
 
世の救い主として
生まれたイエス・キリスト
父ヨセフの精子では生まれてないのだから。
当たり前、な生まれ方をしないで見せてくれたんだ。
 

「まだ、偏見があって受け入れられてないだって? 

そうかもな(笑)

そういうことはあるだろうな(^-^)


だったら俺を見ろよ。

母マリアを懐妊させたのは人間ですらないんだぜ。

そんなことあるわけないって、

2000年以上、否定するやつが

めっちゃたくさん、いるんだぜ。爆」

 

「俺は、世の中の常識を破りまくった。

常識を破ったら罪なのか?

そんなことはねぇよ!

それは、人間が自分で決めた罪なんだろうよ。

 

大丈夫!みんなまとめて赦されてるから❗️ってことだ」

 

「みんな、幸せになれ!!

 

追伸:俺、やっぱり凄くね?

   2000年後の苦しみまで「大丈夫だぜ!」って言ってる (笑)

 

 

私はカトリック信者 幼児洗礼
霊名 聖女アグネス

 

敬虔なクリスチャンをやめた女

 

自分を受け入れる

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【主訴】

あの上司は

年上の私に対して常に上から目線。

私が何をしても

認めてくれない

褒めてくれない

振り向きもしない。

私の今までの貢献も経験も

全て

否定されている

あの人は

自分の出世だけしか

興味がない。

配下の者たちのことなど

どうでもいいのよ。

皆んな

不満で文句を言ってる。

私だけじゃない。

******************

ところで、貴女の仕事ぶりを聴かせてもらったけど、

貴女は

とっても素晴らしいリーダーなのね。

貴女に出会った配下は

とても嬉しかったでしょうね。

素敵な仕事をしてるのね。

『いや、いや、そんなことない。全然』

******************

多くの人が陥る罠がここにあります。

自分を

認めて!

正当に評価して!

と、要求し、相手がその通りに振る舞わないと

私は

認められていない

不当な扱いを受けている

と、不満をつのらせます

それなのに

素晴らしいね

と、褒められた途端

全力で

それを否定するのです。

そう

認めていないのは

周りではなく

他ならない

自分自身です。

「その服素敵ね」

「昨日の〇〇良かったよ」

「あなたの〇〇、綺麗ね」

etc

相手がこう言って褒めた時

つい

「そんなことないわ。全然だめよ」

と、言ってしまうことはありませんか?

謙虚、謙遜が美徳だと思い、

自分を否定することが

謙虚であり謙遜だと勘違いしていませんか。

これは

私たちがもつ

素晴らしい能力、

輝かしい個性の可能性を

奪うために、

実に巧妙に仕掛けられた

言葉の罠かもしれません。

謙遜とは

ありのままの自分を

そのまま受け入れ

あいしていること。

そこには

誇張も卑下もありません。

今まで

長い間、

「いえいえ、全然だめよ」

と言い続けてきたので

認めて欲しい自分と

認めるのは「はしたない、卑しいことだ」

と思う自分が、内側で

喧嘩している状態です。

ここに気づいて

すぐに自己受容していく人もいるでしょう。

一方で

そうは言ってもなかなか

今までの思考習慣を手放せない

という人もいるでしょう。

けれども、

自分を認めて生きたいと

決めたなら

方法はあります。

ただ

練習するだけです。

「いえいえ、そんなことないわ。

私なんか全然だめよ」と、言ってしまったら

急いで付け足すのです

「ありがとう。嬉しい!」と。

実は

相手がお世辞だろうとなかろと

貴女を褒めた時、

貴女がそれを

否定すると

相手をも否定することになります。

否定されて喜ぶ人はいません。

つまり

いえいえ……

と否定するのは

相手も自分も否定することになり

誰にとっても

心地よいことにはならないのです。

ただのお世辞だと思っても

全力で喜んで受け取ってみて下さい。

しばらくして

慣れてくると

あら不思議!

いつの間にか

全部がその通り

自然で当然だと思っていることに

気づくかもしれません。

【自分を愛するがわからない】-4

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自分を我慢して、他人を優先するのは「愛」ではない

自分を卑下して、他人をあがめるのも「愛」ではない

 

我慢することが即ち愛ということでもないし

謙遜することと卑下は違うはずだ

 

自分を尊んで初めて、他人のことも尊ぶことができる

自分を大切にするから、他人も大切にできる

 

尊敬は自分を大切にして初めて生まれる

自分を尊ぶことを知らなくて、

どうして人を尊ぶことができようか

 

だから

自分を愛して

初めて

ひとを愛することができる

 

だとすると・・・・

自分よりも(=自分を押し殺して)

他人を優先する(=しなければならない)

というのは

愛ではない

 

それは

偽善や依存や

自己満足に過ぎないのかもしれない

 

-------------------------------------

 

自分を愛するってどういうことなんだろう

 

自分を大切にするってどういうことなんだろう

 

自分を尊ぶってどういうことなんだろう

 

 

逆説的にかんがえると

 

自分を粗末に扱うというのは

 

 

自分の思い、希望、考えを

無視すること

 

自分をダメだと責めること

 

ならば

自分を大切に、尊ぶということは

 

自分の思いや感じたこと、

望み、考えを

認めること

 

自分を責めずに

自分をあるがままに認め

受け入れること

 

認め、受け入れるってどういうことなんだろう

 

たとえ

何かがうまくできない自分だったとしても

誰かを妬む気持ちが表れたとしても

そういう自分を

許すことではないだろうか

 

落ち込む自分を

「また落ち込んだ。どうして自分はこうなんだろう」

と責めるより

「落ち込むこともあるさ。今たまたま、落ち込んでるだけ。」

 

 

ついつい

ダメだな

と自分や他人を責める自分も

「ダメ」としてしまったところを

ひとつひとつ

許していくこと

 

批難ではなく

許していくこと

 

それが

自分を愛し

ひとを愛することに

なっていくのではないだろうか

 

 

そう思っても

つい

「責める」を繰り返すだろう

 

それが

人間の弱さなのだ

 

だから

何度でも

「許す」

を繰り返していけばいい

 

何度、「責める」を繰り返しても

その度に

ひたすら

ただ

「許して」いけばいいのではないだろうか

 

ひとつ

「許す」たびに

「愛する」ことになっていくのではないだろうか

そうやって

だんだん

「愛」が深まっていくのかもしれない

 

 

もともと

自分を愛していない人はいなくて

愛し方がわからないのだと思う

 

人それぞれ

「愛し方」は違うのかもしれない

 

でも

大事なのは

確かに自分を「愛している」という感覚

 

本当に自分を「愛している」人は

自然にひとを「愛する」だろう

 

ひとが

本当に「自分を愛する」ということを会得したら

この世の中に争いは存在しえなくなるのかもしれない

 

きっと

そこには

「愛」しかなくなるんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【自分を愛する】がわからない-3

 

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我慢

 

自分のことよりもまず、相手のことを考えなさい

 

自分を優先するのではなく

まず、

ひとのことを考えなさい

それが

 

天国に徳を積む(宝を積む)ことになるのだ・・・

 

--------------------------

おそらく

この教えは

友のために自分の命を捨てること、

これ以上に大きな愛はない

 ~ヨハネ福音書15章12~17節~

に基づいているのだろう・・・

------------------------------------------------------------

 

幼いながらに

疑問に思ったものだ

 

自分よりまず相手・・・

いつもいつも

自分よりまず相手を優先しなければ

私は悪い子なの?

 

自分はどうなるの?

自分がやりたいこと

自分が欲しいものが

あっても

我慢しなくてはいけないの?

それを言ってはいけないの?

 

ずっと

我慢して生きていかなくちゃいけないの?

 

神様は

「我慢」させるために

人間を創ったの?

 

どうして

そんな酷いことするの?

わざわざ創っておいて

どうしてばかり我慢させるの?

 

神様は

何のために人間を創ったの?

神様は人間を愛していると

聖書に書いてあるけど・・・

 

我慢する人間だけを

愛するの?

 

 

そんなの変だ!

そんなのおかしい!

もしそうなら

神様はとても意地悪だ!

そんなの

愛じゃない!

 

自分を愛するように

隣人を愛せ

 

どうして

誰も

自分を愛するとはこういうことだよ

って

言わないんだろう?

 

どうして

自分を愛することを誰も教えてくれないんだろう

 

自分を愛するっていう意味を

誰か教えてよ。

そうじゃなければ

隣人を愛するってどういうことか

意味がわからないじゃないの!!

 

 

********************

 

どうして

カトリックの家に生まれたんだろう?

こんな家

選ばなきゃよかった・・・

 

こんな窮屈で退屈な教えで

誰が

幸せになるんだろう

 

こんな辛い教えで

どうして

救われる

とか言うんだろう

 

そもそも

救われなくちゃならないために

生れてくる意味がわからんわ!

 

 

神様ってそんなに

了見が狭くて小さいわけが無い・・・

と、思うんだけど。

 

苦しんで生きる為に

生れるなんて

 

そんな理不尽な目的のために

生きるなんて

まっぴらごめんなんですけど・・・

 

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でも

こんなこと

とても

言えなかったよ・・・

 

つづく

 

 

 

【自分を愛する】がわからない-2

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告解

 

今となっては、本当に笑い種だと思うのだが、

 

その厳しいカトリックの司祭(名前に‛雷’がついていたので雷神父と呼ばれていた)

が命じたことの一つに

「告解せよ。少なくとも2週間に1度は告解するべきだ」

があった。

------------------------------------------

「告解」とは、いわゆる「懺悔」のこと。

 

どんな罪を犯しても

心から悔い改めて許しを請えば

赦される

という恵にあずかることができる。

 

(告白を聴き、その人の罪を「ゆるす」権限を

司祭は持っている。

どのような告白を告解場で聞いたとしても

司祭は決して他言しない。)

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さて、まだ3つか4つの子どもに

2週間に1回「告解」することを義務付けると

どうなるか。

 

もちろん、

そんなことを命じられたところで

屁とも思わずに全く無視する子供も

いたかも知れない。

 

けれども私は

素直で

いい子で

真面目な気質であった。

 

そして、雷神父のムチが恐ろしかったし、

同時に

「ムチで打たれる」という辱めを受けるなど

まっぴらだ。

という、プライドの高い子供であった。

 

それ故

こんな命令にも

忠実に

従ったのだ。

 

健気にもほどがあろうというものである。

 

しかし、いくらカタチだけ従おうと思っても

「罪」ってなんだ?

と、

正直、何が罪なのかわからなかった。

 

けれども、2週間に1度

告解場で何か「罪」を告白しなければならない。

 

ところで、この「告解」に対する心構えとして

 

「告解は、十分準備をして、

心から悔い改めて告白するのでなければ

その罪は赦されない。」

という、これまたプレッシャーが半端ない

殺し文句つきであった。

 

それで、私は

真面目に、自分の中に

「罪」を探した。

「私の罪は何だろう?」

 

ところが

探しても見つからなかった。

 

真面目な私は

「まずい、何か探さなければ」

と、思った。

 

こんな風になると

何をしでかすかというと

『罪を創る』ようになるのだ。

 

 

『罪を創る』というのはどういうことかというと

決して、

わざと悪戯をしたり、

他人に危害を加えたり

盗みを働いたりするということではない。

 

そんなことより

もっと

恐ろしいことをしていたのである。

 

それは、

自分で自分を「罪」に定めてしまうということ。

 

幼い私は

「弟と喧嘩をしました。」

「弟と喧嘩をして叩きました。」

「お父さんの言うことを聞きませんでした。」

「お手伝いをしたくないと思いました。」

こんなことばかり(正確には覚えていないが)

「告解」していたのだ。

 

私はずっと、

自分を「罪」とし続けたのであった。

 

そして私の

本音はどうだったのか

 

◆喧嘩をしたことを

 心から悔い改めていたか?

 

否である

 

しかし、真剣に悔い改めない告解は告解ではなく

その罪は赦されないという呪縛は残った

つまり、悪いと思ってもいないことを

「悪かった」とウソをついた

という「罪」が残ったのだ。

 

「おい!神父!

お前の命令によって

幼い子供が

告解場で「罪」を犯したぞ!」

と、言いたい。

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そして、

私が本当に「告解」するとしたら

ここなのだろうし、

本当に「赦してほしい。謝りたい」と

思うことをしでかしたときは

告白するには勇気が必要である。

そして、それを告白し、赦しを得た時の

安堵感、有難さ、救われた感というものが

大きいのも事実である。

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◆言うことを聞かなかったことを

 心から悔い改めていたか?

 

否である

だいたい、

納得のいかない命令に従わなかったからといって何が悪いのだ?

・・・・素直でいい子であるはずの私の別の自分がそう呟く・・・

 

◆「お手伝いをしたくないと思いました」

 

当たり前じゃない?

「やれ」とヒステリックに命令される

食後の皿洗い。

年上の姉に小突かれ、「鈍いね!」と叱られながら

冷たい水で食器を洗うというお手伝いが

愉しいわけがないんだから。

 

素直に感じた自分の感情を

「悪いこと」にしてしまう

「悪いこと」は避けなければならないと考え、

それならば

素直に感じた感情を無視したり

否定したりし始める。

 

これが癖になると・・・

 

自分が本当に好きなことは何か

何をしていると楽しいのか

何をすると嬉しいのか

何がしたいのか

 

分からなくなっていくのだ。

これを

内的不感症

という。

 

 

このような状態の自分が

「自分を愛している」と言えるだろうか?

 

つづく