【自分を愛する】がわからない

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「隣人をあなた自身のように愛せよ」マタイ22章-39

自分を愛するように人を愛しなさい・・・・

 

他人を愛することは難しいことで、

自分を愛していることは

ごく当たり前のことだということだろうか。

 

聖書はずいぶんと難しいことをおっしゃる。

 

私は幼児洗礼

つまり

生まれて間もなく

カトリックの洗礼を受けた。

洗礼名は聖女アグネス。*

*(その昔、とても美しかった彼女は

エスに一生を捧げると決めた。

信仰に生きるため、全ての縁談を断り続けたが

ある富豪の男はそれを許さず、

「結婚しなければ殺す」と脅した。

それにも怯まず、抵抗した彼女はついに

首を刎ねられて殉教した)

 

私が子供の頃のカトリックの教えは

とても厳しかった。

 

というより、もの心ついた時、その地の教会の司祭は

たいそう厳しい人だった。

 

司祭が教えた大切なこととは

1.お祈り (神を愛する、賛美する)

2.人に親切(自分よりもまず相手を優先する)

3.我慢 (耐えろ、我儘を言ってはならない、従え)

この3つだと常々言っていた。

 

幼い子供にとって

これがどれほど苦しいことであるかわかるだろうか

 

ほんの3つか4つの子どもが

お祈り

*1時間にも及ぶミサの間、じっと手を合わせて「祈り」の姿勢を保つ

 できなければ、「行儀が悪い」と叱られ、ダメな子とみられる。

*朝な夕なに、「祈り」を唱えることを義務付けられる

 従わなければ叱られる、叩かれる。

      ⇓

 幼い私(子供)にとってそれはつまり、

 親からの否定になり、

 愛されない存在になるということであった。

 

*何のための祈りなのか、どうして祈るのか全く分からず

ただ、「祈る(祈りの文を暗記して数多く唱える)」ことを

強いられる。

      ⇓

 心の中では「つまらない!面白くない!」と思いながらも

 口に出すことはできず、ひたすら、祷りのもんくを暗唱し

 早口で数多く言い切ることに専念する。

 

 納得のいかないことを繰り返し行うことの

 猛烈な退屈感。

 そして

 消えない疑問を抱え続けることになったのだった。

 

他人に親切

この教えそのものは気に入っているのだが・・・

 

例えば、親切であることを教えるのに

「子供は座ってはいけない。子供は元気なのだから、大人に席を譲れ」

は無いだろう・・・。

 

 

我慢

これだって、

自分を律することも必要とか

勝手気ままと自由であることは違う

とかを知るにはいいことだと思うのだが・・・・

 

何かが欲しくても

大切なのは「我慢」だから

「欲しい」とねだるのは我儘であり

駄々をこねるなどもってのほか。

 

駄々をこねたところで

何でもかんでも手に入るものでもなく

買ってもらえないことも多いと思うのだが

 

 

大事なのは

「欲しい」と主張する経験

自分はこれが「欲しい」と口に出し、

身体で表現すること。

 

私は、それを封印してしまった。

何故なら、

大切なことなんだと

素直に従ったからである。

 

そして、

ただ一度

親に何日も

泣いてねだった経験

「自転車を買って」

は、叶わなかった

 

そして

このとき、

私は

「親に何かをねだって買ってもらおうなんて

思うものか」

と、決めた。

 

(つづく)