どう認識するか、どう言葉にするか

《十分と不十分について》言葉になった時に現象化する

 

・ある長期講座で、資料のいくつかが未配布でした。
・参加者はそれを知りませんでした。
 だから彼らは「資料は足りている」と自然に思っていました。

「資料は十分だ」という認識です。

 

ところで、講座の途中回で「これを読んでおいてください」と提示された資料が

手元に「無い」と認識したとき、はじめて「不足している」状態が生まれました。

 

これが「不十分」と言葉にし、「不十分だ」とおもうメカニズムなんですね。

 

では、参加者がこの資料を何の先入観もなく、「十分ある」という認識のまま、

次回にただ追加の資料として受け取っていたらどうでしょう。
資料が不足していた、不十分だったという認識は生れたでしょうか?


そんなことはありませんよね。

「資料は十分だ」という認識が連続するだけです。

 

もし、資料についてあらかじめ、予備知識(先入観)があって、

「配られるはずのものが無い!」とおもっていたらどうでしょうか。


「不足している」「足りない」とおもっていたら何が湧いてくるでしょうか。
それは『恐怖』と『不安』です。

そうなんですよ。


無い  とおもうから 不安になり
不十分だ とおもうから 心配し
不足している とおもうから 恐れる
んですよね

 

資料は初めから整っていて

すべて「在る」わけです。

 

それが配布されるには
ふさわしい「とき」があるのだとおもいます。
必ずしも、自分の意図したタイミング(顕在意識が良いと判断するタイミング)ではないわけですね。


この「配布のタイムラグ」は
私達にとって、

時に残酷に見えることもあるかもしれませんし、

不幸だと思えるような事態かもしれません。

それでも、

敢えて言うならば

                                   
はじめから
元々
全て在る
十分にある

 

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地上からは見えなくても空は在り、太陽もまた在る


わたしたちに

欠けているものはなく

必要なものはすべて

もうすでに

手にしている

 

 

ビーバップ修道女 

黒澤 美佳